ダンボーと歩く北海道、9月の下旬に訪ねてみたのは日本海側の寿都町は弁慶岬。寿都町の市街地から海沿いを通って島牧村方面へと抜ける途中にある突き出た岬、いまなお伝説残る義経・弁慶のゆかりの地(?)。
ここから右は積丹ブルーに続く海、ここから左はせたな奇岩ロードに続く海、そんな場所に位置する寿都町の弁慶岬。
かつて。
平安時代の末期、源氏と平氏の戦いが終わり、源氏が勝利を納めたあと。今度は源氏の中での争いごとが始まった。鎌倉幕府を立ち上げた源頼朝、そしてその弟・源義経。
源頼朝に睨まれることになってしまった義経は、表舞台からおわれるように、弁慶をはじめとした忠臣に囲まれながら、奥州藤原氏の下へと逃げのびた。
強大な勢力を持っていた奥州藤原氏ではあったが、日を重ねるごとに鎌倉からの圧力は強さを増して。ついに奥州藤原氏はかくまっていた義経の首を取り、鎌倉殿へ屈服する路を選ぶ。三代の栄耀は一睡のうちにして大門の跡は一里こなたにあり。
ところが「義経は死んではいない」という説が後世になって台頭。ほんとかどうかは別にして。
奥州藤原氏の内乱から逃げ、蝦夷の地へと逃げのびたという言い伝えが江戸時代ごろから語られるようになり。
この弁慶岬もその伝説の一部が残される場所。
奥州藤原氏の追及を逃れた義経・弁慶の一行は蝦夷の地へとやって来て、この地で同志たちとの合流を図って滞在。弁慶は毎日、この岬の先端に立ち、海の向こうからやってくるはずの仲間の到着を待っていたらしい。
義経を慕っていた仲間たちと再会することは叶うことはなかったけれど、そんな弁慶の姿を見ていたアイヌの人たちは、いつの頃からかこの岬を弁慶岬と呼ぶようになったという。
作為的なのかどうかは分からないけれど、江差・寿都・岩内と、日本海側に弁慶ゆかりの地が並ぶのはちょっと不思議。
弁慶岬に立つ弁慶岬灯台は明治23年に点灯が開始され、昭和27年にコンクリート製へと改築された灯台。
すでに100年以上、この地で海の航海を見守り続ける灯台。
海の安全を守る灯台、そして仲間の到着を心待ちにする弁慶が立つ弁慶岬。
景勝スポットといいながらも、観光で来る人たちよりも、もしかすると釣りに来る人のほうが多そうなスポット。散策路を歩いていると、崖の向こうから突然人が現れてびっくりすることも。
時は夕方。
夕日見にいこー
気をつけて
沈んじゃいそうなの
またね
ちょこっと雲に隠れちゃったけれど、静かな夕日。
そっち行きたいー
あわてないの
ばいばーい
いなくなっちゃったの
待ってたらお友達 来るかな...
この弁慶岬。岬の先端が裂けた形になっていて、岩と岬の間をベルケイ(裂けたところ)と呼んでいたのを、和人がベンケイとなまったという話もあるので、そこから弁慶伝説につながっていったのかも。
アイヌの人が「ベルケイ」と言っているのを「え、ベンケイ?知ってるの?」って聞き間違えが始まりだったりするのかも...
【場所】
【寿都町 弁慶岬】
【訪問日:2018.09.23】